質感で裏切る、陶器らしからぬ器
初めて釋永岳さんの器を目にした時、これは木なのか、石なのか、陶器なのか?と一瞬戸惑います。存在感のあるテクスチャーを持ちながら、しっかり料理を引き立てる彼の器を求め、全国のシェフからオーダーが絶えません。富山を代表する窯元の家系に生まれながらも、独自の陶芸の道を歩く釋永岳さんの創作の現場を訪ねました。
彫刻的な花器との運命の出合い
――もともと陶芸の道に進むつもりだったのですか?
最初は全くやろうと思っていませんでした。父親が焼き物屋ということもあって、昔から物を作ること全般に興味がありました。陶芸に限らず、絵を描くことも、料理を作ることも。だから美大に行きたいとは思っていましたが、学科によってカリキュラムが異なり、なかでもいちばん性に合っていたのが彫刻だったんです。木炭で描くデッサンと、粘土で造形する彫塑が楽しかったので彫刻に進むことに決めました。その途中に陶芸が頭をよぎったことはありませんでした。
――それなのに陶芸を志すようになったのはなぜ?
現実的な理由ですが、ファインアート系の大学なので、在学中からその道を追求するものの、デザイン科や建築科と違って卒業後ほとんどがアーティストとして残れていない。僕はどうしても自分の作ったもので生計を立てたいという思いが強くありました。だからと言って、どうすべきか分からず迷っていたので、ヒントを求めて休日のたびに日本橋界隈の骨董品屋さんを巡っていました。焼き物屋の息子なのに、大学4年間東京にいながら、そういうところに出入りしてないことに気づき、最低限押さえるところは押さえようと見て回っていたとき、ある陶芸家の花器に出合ったんです。
それが、今もお付き合いがありますが、金重有邦さんという作家の備前焼の花器でした。骨董品とは違う、現代作家の作品ですが、なんとも表現し難い妖艶な雰囲気で、艶っぽい女性的なオーラをまとっていたんです。そこに彫刻的な要素を感じ、焼き物の良さを改めて認識しました。実家も焼き物屋だし、陶芸なら粘土のように彫刻も作れるし、お皿を作ったら、それで正直生活もできるのではないかと可能性を感じました。
紆余曲折した陶芸の道
――陶芸の道が見えてから、ここまでどう歩いてきたのですか?
まず、陶芸の練習はしていなかったので、ならばその道の一番いい学校に入り直そうと、京都府立の訓練校に入りました。卒業後は実家に戻り、父の元で下積みをするのですが、やることといえば、山から土を運んできて精製する仕事と薪割り、主にこの2本立て。それが3年ぐらい続きました。もう一つは、小品を練習することでした。僕は大きな体なのに、なんでこんな小さいものを作るんだという反抗心もあり、嫌々やっていました。当然作っても売り物にはならないので自分の力量に対してストレスは溜まってゆく一方でした。そのくせ自由に制作したいという欲だけは強くて。
――思うようにできないもどかしさのような?
面白くないし、自分がやりたいことも見えなくなり、迷走していました。もうやめようとまで思い始めていた時に、手を差し伸べてくれたのが「満寿泉」蔵元、桝田酒造の桝田(隆一郎)さんでした。子供の時から知ってはいましたが、ある日、実家の工房で僕がろくろ作業をしている最中に、桝田さんがいらっしゃって、「今の君の表情や雰囲気はあまりよくない。東岩瀬町に街を作っているから、今度見においで」と声をかけてくれました。後日、遠足気分の軽い気持ちで訪ねたんですが、「父親のもとを離れ、自分で生活する苦労を知ることが大切だと思うよ」と桝田さんに言われた言葉に深く考えさせられました。確かに実家にいれば、くさっていようが何だろうがご飯は食べさせてもらえる。昔は僕らの世界は一人前になるまでに何年も修行するのが当たり前でしたが、今はもう違います。そこで独立を決意したのが15年前です。
――陶芸家としてお父様の作品をどう思っていたのでしょうか?
父の作っているものがかっこいいか、かっこよくないかといえば、もちろん富山ではダントツに良い作り手だと思いますし、地元の土や薪窯で焼くことにも誇りを持っています。正直なところ、薪窯は素晴らしく魅力的で僕もやりたいですが、偶発的な作品表現は今の僕がやりたいことではないんです。自分の目標に対して、頭で計算してコントロールのもと作りたい。
陶芸家としての道が開けた瞬間
――父親の窯元を離れ、自由に創作できる環境になって作ったものとは?
初めは彫刻をずっと作っていました。誰も買ってくれないし、飯も食えない。徐々に器も作ってはいましたが、売れるようなものではないので、夜はパチンコ屋でバイトして、パチンコ屋には助けられました(笑)。家族もいたのでとにかく必死でした。精神的に追い込まれていたこともあり、何をしたかというと、人気作家の真似、二番煎じどころかコピーを作ろうとしているんだから、誰にも振り向いてもらえず。なおさら面白くなくなり、妻にはもう焼き物では飯を食えないかもと弱音を吐いたこともありました。
――悶々とする苦しい日々が続き、その雲が晴れるきっかけとなったのは?
どうせ売れないなら、やめる覚悟で好きなことをやってみようと、最後に自分のテイストで彫刻を作り始め、それに加えて、少し自宅用の器を作っていました。それがたまたま、レヴォの谷口(英司)シェフの目に止まりました。つい7年ぐらい前のことですが、谷口シェフとの出会いは大きいです。
焼き物らしからぬテクスチャーを表現
――やめる覚悟で取り組んだ自分らしいテイストとは?
僕自身、何かに惹きつけられるのは、裏切られた時だと思っていて、器だったらどうすべきかを考え、ちょっと人を騙すような焼き物に見えない素材感をコンセプトにしました。例えば、コルクや木、革、鉄、隕石などのイメージ。焼き物らしからぬテクスチャーを表現することを自分の柱にしようと決めました。その方向性でやり出した頃に、谷口シェフと出会い、ご自身のレストラン、レヴォを富山にオープンさせるタイミングで僕に器をお願いしたいと頼まれました。
――レヴォと言えば、全国からわざわざ食通たちが訪れる名店です。そんなシェフとのコラボレーションはどのように進んでいくのでしょうか?
谷口さんのご注文は面白くて、全部僕におまかせなんです。かっこいいものを好きに作って、というそれだけで、あとは何も注文しません。だから勝手に想像して使ってもらいたいものをぶつけるだけ。
――質感で勝負することに決めて、造形的にはどのように決めていくのですか?
形については、話を聞いて、あとは完全に直感で、どういう器が欲しいかはすぐ思い浮かびます。どう構築していくとか、こう変化させたほうがいいとか悩むことなく、アイデアが浮かんだ時には頭の中で形ができていて、そこから直すことはほとんどありません。素材感は大切にしてますが、器に関しては作り込むようなことはしません。自分の直感を一番大切にしています。
――作り込みをしないと、いうと?
完成させない。お料理をのせる必要があるので、僕がやり切ると、お料理がのってお客様の前に出たときに、ちょっと疲れる一皿になってしまう気がします。だから僕は一歩引いて、もの足りないぐらいで止める必要があると思っています。やりきらないことが大切です。そして、器に関しては、僕は基本的には丸でいいと思ってるので、丸ばかり作っています。昔は、模様や装飾など何かしないと不安という気持ちもあって、いろいろな形を作りましたが、僕も料理をするので、結局丸が一番使いやすくしっくりくるという結論に至りました。作り込むのは、彫刻でガンガンやればいい話なので。
――裏切りの素材感、もう自分のスタイルは確立されましたか?
どうでしょうかね。僕の器が他の焼き物屋さんとちょっと違うところは、丸は丸ですが、あんまりカチッとした丸ではないところですかね。なぜかというと、ろくろのスピードが遅いからです。京都や九谷の職人さんのろくろが時速100〜120キロだとしたら、僕は70キロぐらい。ろくろは速ければ速いほど、カチッとした形になり、遅いと土の硬さやクセに手がついていけず、歪むんです。僕の皿はすごく歪んでるんですけど、それが柔らかいフォルムを生み有機的にしています。速いとどうしても無機質になってしまう。
――それは人間味があるというか、彫刻的なアプローチに近いようにも思います。
ろくろを回すのはロボットではないので、僕という人間がやる意味がないと。ビシッと作るのは僕に求められていることだとは思いませんから。
――土だったり、製法だったり、これでなければならないというこだわりはあるんでしょうか?
そういう意味でのこだわりはありません。自分の完成したいものを具現化できる土であれば、世界中どこの土でも使いたいです。成形も、ろくろ成形、土の塊を起こしてナイフでスライスして成形するたたら成形、石膏型を作りドロドロの土を流し込んで水分を吸着させる鋳込み成形と3種類の方法で作っています。釉薬についても教わったわけではなく、本で学び、その代わり何度も熟読し、テストを繰り返しながら修得していきました。そもそも出身が焼き物畑ではないから、普通なら絶対やらないことも縛られず自由にできるんです。
――それは制作の場もどこでもいいと言えると思いますが、それでも富山のこの地でやる意味は? 岩瀬という街からインスピレーションを受けることもあるのでしょうか?
確かにここである必要はありません。ご縁があって岩瀬の古い町並みに住んではいますが、それがもの作りに影響を与えることはほぼないです。強いていうなら、桝田さんやお連れのお客様からの一言はやっぱり刺激になります。世界中を飛び回ってたくさんのいいものを見て購入し、使ってきた目の肥えた方々ばかりで、褒めるだけでなく、きちんとダメ出しもしてくれるんです。それによって僕は育てていただきました。
料理を引き立てる道具としての器作り
――では器を作るときに、一番大事にしている要素は?
そもそも僕は器を美術品だと思って作っていません、あくまでも食器であり、お料理を演出するアイテムの一つであり、道具の一つだと思っています。なので器を作る時は職人に徹します。
――釋永さんの器は、普通の家庭料理を盛り付けても格上げしてくれます。しかも頑丈だから日常使いできる。
主婦の方々から「料理をのせるだけで絵になる簡単な器で助かってます、楽させてもらってます」と言ってもらえるのは、すごく嬉しいんです。
――次の新作の構想はもうできあがっていますか?
2022年は、5、6年温めていたものがやっと完成します。僕らしからぬ光沢のある器で、テーマは、真っ暗闇の夜空の下に潜む月ノ輪グマのイメージ。これにお料理を盛りつけたらきっと楽しいはずです。
釋永岳 Gaku Shakunaga
1978年富山県生まれ。2002年東京藝術大学彫刻科卒業後、京都府立陶工専門校成形科で陶芸を学ぶ。2006年から富山市岩瀬森家土蔵群にて作陶。
GAKU ceramics
富山県富山市東岩瀬町146
TEL:076-456-7598
MAIL:g-s-c121@pb.ctt.ne.jp
URL:http://gaku-shakunaga.com/
Photos:Teruaki Kawakami
Edit&Text:Masumi Sasaki